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院長のお話

正眼寺境内の紅梅  正眼短期大学の評議委員会に出席

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梅今日は、正眼短期大学の評議委員会に出席のために伊深へ
少し時間がありましたので正眼寺をお参り。
境内には梅の老木があり、枯れかけた枝に輝く花を咲かせていました。
木一杯に咲くのも美しく思いますが、
頑張って残された生命を育んでいる数個の花も見応えがあります。
とても美しく思われ、いとおしくも感じました。
ウメ
梅の原産地は中国の山岳地帯といわれ、日本には西暦550年ごろの欽明天皇のとき、呉の僧侶が奈良の都にもたらしたと伝えられる。その土産の中に梅の花をあしらった衣装があり、これが評判となって流行したのが呉服の語源とか。
梅杯(さかづき)に 梅の花浮かべ 思ふどち 飲みての後は 散りぬともよし(大伴坂上郎女)
盃に梅の花を浮かべ 仲間同士で 汲みかわしたその後は 梅よ散ってしまってもかまわない。
など、『万葉集』には118首もの梅の歌が収められている。
むめ一輪 いちりんほどのあたたかさ
「梅は百花の魁(さきがけ)」といわれるが、早咲きの梅は小雪まじりの木枯らしの中で身をふるわせる。ふくいくとした香りがその周辺にただよい、春近しを告げるだ。作者は江戸前・中期の俳人服部(はっとり)嵐雪(らんせつ)、蕉門古参の高弟です。
 来る日もくる日も凍りつくような酷しい寒さをじっと耐えていたある日、ふと目にとまったのがウメ一輪だったのでしょう。待っていた春がいよいよやって来る。咲き満ちるよりも一輪がほころびて、また一輪がふくらみ初めたころが最も見ごろなのだと思います。
 芭蕉の句に「梅が香(か)に追いもどされる寒さかな」とあります。咲いたからもう大丈夫、これからは日増しに暖かくなるだろうと気を緩(ゆる)めていると、急な寒波の襲来で、寒の戻りというのに見舞われます。
[伝説①]
 春浅い夕暮れ、今日の東北院を訪ねた僧が白いウメに見入っていると、美しい女がでてきて「これらは和泉式部(いずみしきぶ)が軒端(のきば)の梅と名づけて愛した白梅。ここが御所だったころ、式部が自ら植えたものです」と話して奥へ去った。
 情熱的な愛の歌をたくさんよんだ式部ゆかりのウメと聞けば、その風情もまたひとしおだった。その夜、院内の一室で法華経をよんでいた僧の前に式部の霊が現れ、供養の礼をいって、語りはじめた。
「かつて、門前を関白の藤原道真様がお通りになったとき、車の御簾(みす)の中から法華経を読む声が聞こえてきました。それを聞いて私は『門(かど)の外(そと)、法(のり)の車の音聞けば われも火宅(かたく)を出でにけるかな』と一首よみました。生前は恋多き女として奔放な生活を送った私ですが、この歌をよんだおかげで極楽では歌舞の菩薩となり、おだやかなときをすごしています」と、式部はしみじみ語り、明け方の気配とともに消えた。部屋にはひときわ高いウメの香が満ちていた。(謡曲)
[伝説②]
 平安前期の学者で政治家でもあった右大臣の菅原道真は宇多天皇の信頼を得たが、醍醐天皇のとき、政敵の藤原時平の讒言(ざんげん)によって九州の大宰府へ流され、都の空を思いながら59歳で死んだ。
 道真は都にいたころ、ことのほかウメの花を愛した。屋敷には都でも屈指の梅園があり、なかにひときわ目立つ美しい紅梅があったことから、人々から紅梅殿と呼ばれるほどだった。大宰府へ行くためにやしきを発つとき、道真は愛するウメの木との別れをおしんで、「こち吹かば匂いおこせよ梅の花、あるじなしとて春を忘るな」と歌をよんだ。
 心なき草木にも道真の悲しみが通じたのか、のち、このウメの一枝が彼を慕って空を飛んでいき、大宰府の住居の庭に根を下ろした(太平記)
へつらはぬ 枝の強さよ 梅の花(海舟)
 幕末の志士、勝海舟は梅のしたたかな生活力を愛したといわれる。伐れば伐るほど芽を出し、枝を伸ばす梅。その枝ぶりは素朴で野趣に富み、孤高の高ささえある風情が、いのちを燃やす青年の共感をよんだのだ。そして寒風のさなかに咲き出す梅の花に、未来への希望を見出したのかもしれない。
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